失語

市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬまで

好きな人について

嫌いな人について書いたので好きな人についても書くか。

私が人を好きになるときのベースになってるのは”自分に自信があるかどうか”かもなぁ。大人に限った話だけど。(あまりに若い世代にそれを求めるのは違うと思うので)

何も偉そうとか万能感があるとか勘違い野郎ということではなく、自分が自分だと思える人。

 

実際、世の中に本当の意味でめちゃくちゃ自分に自信がある人なんてそういないと思うのよね。でも、その中で”ここだけは誇れる”とか”自分自身が本当だと思えることがある”、自分の核となるがある人。そういう揺るぎない部分があるから他人と尊敬し合える、っていう人かな。

自分への評価軸が他人基準(○○にどう思われるかや社会的にどうか)だとめちゃくちゃつらいと思うんだよね。常に比較して上がったり下がったり。そして、上がってもなんかの拍子で簡単に急降下する。
持ってないものを見れば羨ましくなるし、手に入れられないと妬むようになる。
もちろん他人に認められたいってのも立派な欲求だし必要な要素だけど(褒められることはかなりうれしいしよね)、そこの比重が大きすぎるとキツイのでは、と。
それはもう”執着”の域に入ってしまうと思うのよね。

 

確かに、今までの環境に大きく左右されると思うし、いわゆる”自己肯定”って簡単に言ってもなかなか確固たるものにはできない。

特にこういう環境で育つと、”自分の意見を言う”こと自体が思い浮かばないよね。すべては相手の意見次第(幼いころに身を守るためにはそれしかなかった)だから、自己の肯定は自ずと他人軸になる。
これはエヴァのシンジやアスカを見てるとよくわかる。

 

アダルトチルドレンかどうかは置いといて、私だって大層気にしいだと思う。MTGで発言すれば恥かくのが怖いし、違う意見があっても輪を乱さぬよう黙ってたことも数えきれないくらいある。

だけど、それっばかりだと本当にメンタルは下降していくのみなので、訓練することが必要なんだなって思う。思考って結局は本来の持ってるものというよりも”癖”が大きいと思うので、そこを死ぬほど繰り返して思考癖を作る。(もちろん脳からぶっ壊れてる人がいないかって言ったら100%そうではないと思うが)

今はそういうカウンセリングやメンタルトレーニングもあるし、本を読むだけでもだいぶ違うと思う。

私はこういうマインドで生きていけたらいいなって常々思ってる。

”間違ってること”は否定されたとしても、”間違っている私”を否定されてるわけじゃないから、自分自身を卑下する理由にはならないんだよね。

もちろん大事な助言は心して聞くべきだし改善点があるときは努力すべきだけど、そうでない意見だと思うものに対しては「だからなに?私は私なので」でいいんだと思う。

“どうでもいいことに耳を貸さない”訓練も必要ヨ。

 

だから、そういう片鱗を見せる人が好きなんだと思う。

f:id:nekochanchang:20211207114254j:plain

美しい猫(私の中の絶対的なもの)