好きな本や漫画は数えきれないほどあれど、定期的に読み返してるものとなるとそう多くはない。
そのうちの一冊に、『トーマの心臓』がある。
ドイツのシュロッターベッツ高等中学を舞台に、己の罪に囚われるユリスモール・バイハンを愛し、彼を解放するために自殺したトーマ・ヴェルナーと、トーマにそっくりな顔のエーリク・フリューリンク、そしてユリスモールを見守り続けるオスカー・ライザーたちを中心に、少年たちが試練の中で愛すること、赦すことを知り、自分たちの進むべき道を模索する様を叙情的に描いた作品。作者萩尾望都初期作品群の中でも、『ポーの一族』と並ぶ代表作とされる。
中学だか高校だかの頃、家に来た叔母が持ち帰り忘れたのを借りたのがきっかけ。
それまで読んでいた漫画のタッチとはだいぶ趣きが違ったし、好きな男の子や友達とキャッキャする毎日!みたいなりぼん・なかよし系とも違った(もちろんそれはそれで大好きだし、それらがいかに萩尾望都の影響を受けていたかはのちに知るわけだが)。
罪とは、死とは、信仰とは。そして愛とはなにか。
宗教について考える際、わたしは祈りや願いの実現性についてどうしても考えてしまう。
叶いもしなそうな祈りを捧げ続けることは可能なのだろうか。
もしそれが叶わなかったとき(裏切られたとき)、信仰心はどうなるのか。
どうしてもそこにフォーカスしてしまう。
そして、数多の宗教あれど、恐らく願いが叶った人のほうが少ないと思う。
ではなぜ、宗教は衰えるどころか、むしろ勢いを増していくのか。
わたしは“願い”や“祈り”そのものに信仰があると考える。
というか、願いや祈りが信仰なのだと思う。
願い続けているうちは彼らの精神は苦しみつつも、ある面では安寧でもある。
自分のために自死したトーマが理解できず、
また、過去に犯した罪の意識に苛まれ続けているユーリが「神さま 神さま 御手はあまりに遠い」とこぼす。
あまりの暴力性の前では信仰心など取るに足りないものなのだと、自らを生贄にして証明してしまった彼にとって神は遠く、救いの手を差し伸べてくれる存在ではない。
しかし、すべてがわかったとき。
信仰とは裏切りの行為によって拒絶されるものではなく、それすらも超えていくものなのだと。
エーリクやオスカーが自分にとってどのような存在であったか、いかに神の愛を勘違いし、勝手に自分を貶めていたか。
“叶う叶わない”はさして問題ではなく、“祈り続けること”で救われるのだ。
それに気づいたときの彼のカタルシスを共に体験するような感覚がある。
本当に宝のような1冊だ。
わたしは今現在特定の神に何かを思うことはないが、信仰の力というものはいつも気になっている。
“裏切り”が起こす作用については映画の『シークレット・サンシャイン』を参考に今度書いてみたい。