先日、『トーマの心臓』における宗教について書いたが、今回は映画『シークレット・サンシャイン』について。
ポスター秀逸だなぁ…。
わたしは、『トーマの心臓』に対する感じでこの作品を捉えている。
ネタバレを含むのでこれから観る方はご注意を。
胸糞悪いというか、やり切れない気持ちになる映画は数多あるが、これはその中でも最高峰ではなかろうかね。
更に、ただ後味が悪いだけではなく、宗教、そして神に挑んだ作品という意味でも突出してるのでは。
トーマもこれもどちらもキリスト教の話だが、わたしは特定の宗教について話してるわけではないので、そこんとこよろしく。
さて、『シークレット・サンシャイン』。
シングルマザーのシネは、幼い息子ジュンと2人で、亡き夫の故郷・密陽(ミリャン)に引っ越し再出発を誓う。地元の小さな自動車修理工場の社長ジョンチャンは、そんなシネと出会い心惹かれる。何かと世話を焼いてはシネの気を惹こうとするジョンチャンだったが、今も夫を心から愛しているシネは、彼を俗物男と評して冷ややかな対応。そしてようやく新生活も落ち着きを見せ始めたとき、思いもよらぬ悲劇が彼女を襲う。
息子のジュンが誘拐され、全財産を身代金として渡したものの、結局ジュンは遺体となって発見されたのだった。絶望の末に、薬局の女主人に勧められたキリスト教への入信を決断するシネだったが…。
ちょっと記憶があいまいな部分があるが、韓国を代表する俳優ソン・ガンホも出ているこの作品。
一人息子を誘拐の末亡くすという、想像を絶する悲劇に見舞われる主人公。
自責の念を抱え、絶望の淵にいた彼女を支えたのはイエスだったわけだ。
学び、もがき、祈り、苦しみ、遂に神の御許で加害者を赦そうと心決めた時、加害者はすでに「神に赦された」と言って穏やかな顔をしていた。
こちらに泣いて縋って赦しを乞うてくると信じていたはずの人間が、だ。
神とはなんだ。
徹底的に描かれる“神の不在”。
確かに、そこに、実体としての神はいない。
結局のところ、「こうなって欲しい」「こうあるべきだ」というのは人間が作り出した意識であり、幻想であったわけだ。
神は一言も発しないし、すべての事象への反応は自分の感情でしかなかった。
多くの人はここでやられてしまって自死に至ったり狂ってしまうのではないか。
狂わないほうが難しいのではないか。
そこまで思ったときに、タイトルについてもう一度思いを巡らす。
差し込む光は、信仰か、否か。