失語

市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬまで

我が断絶

ここで紹介したブログの後半、長年の友達と距離を置いたって話についても書くか。

 

わたしも同じ決断をしたとき、すごく似たような疲労感があった。

今思えば、いつからか、連絡や会うのになんとなく積極的になれなくて、
実際会えば楽しくてホッとしたこともあれば、違和感がよりくっきりすることもあった。

その違和感があまりに膨らんだときに、「もう無理だ…」と思ったんだよね。
当然そんな風に思っちゃう自分への嫌悪感もあったし、私たちに関してはどちらかが100%悪いなんてことはないと思う。

ただ、これはわたしのブログだからわたしの考えを書く。

 

まず、色々経て思うのは、“好きな友達に勝ちたい”なんて思わないってこと。

よくマウントうんちゃら~とか聞くけども、そもそも好きな友達にそんな風に思うのっておかしい。
わたしの相手も、何かっつーとわたしのほうが!って感じの話になることが徐々に多くなってきて。
何人かで話しててもすぐ自分の話にするし、周りが辟易してても気付かない。そういう絶妙な違和感が堆積してった感じ。

“馴れ合いじゃなくて切磋琢磨できる関係”はいいけど、
“何話してもなんか小馬鹿にされてるように感じる関係”はダメでしょう。

もちろん人間だから人と比べたりわたしのほうが…と思っちゃうことはあるし、毎回いい感じの態度ができるわけなかったとしても、あまりにひどいな、と。

 

多少のフィクションを交え、例えばだけど、
「いいファンデない~?」って聞かれたときに、
自分は当時販売員だったし100%善意として「最近だと、カバー力が割とあって艶感もきれいな○○がおすすめだよ~、人気あるし○○円くらい!」とか答えるとするじゃない。
そうすると「あ~わたし全然肌荒れしないからカバー力とかはいらなくて。あと色白で合うの少ないから明るめの色があってナチュラルなやつなんかない?」みたいな返し方、わかるかな?
じゃあ最初からそうやって聞いてよ、という。

別の例だと、
同じコンテンツが好きで、本来ならそれについて話せることが楽しいはずなのに、“いかに昔からそれを知ってたか”とか“レアな○○を持ってる”とかそんな話ばかり。

自分だけ知ってたことがあったとして、「え、絶対好きだよ、一緒に見よう!」とか「本当に良かったんだよ、一緒に体験したかったな」で良くない?

一見別に大したこと言ってなさそうなんだけど、こういう地味~に嫌な感じのチリツモ案件。
これはモノやコトに対してだけど、ライフステージとか仕事とか、そういうのにまでどんどん及んでいった。
しかも、相手は楽しいのかな、この会話っていう。一瞬の優越感が癖になってたのかな?
別離の決定打はあったものの、結局はこういうのの堆積の結果だったと思う。

 

前も言ったけど、好きなところがあるからこそ長く友人をやってたわけで、簡単に終わり!ってできないよ。
ある程度はお互いの欠点も含め楽しくやってたわけだしさ。
だからこそ違和感があっても“いや、そんなことない、自分だってよくなかったし”って思いを打ち消すってのをかなり長くやってたと思う。

周りの目も全く気にならないと言ったら嘘になるし、いちいち大ごとにしたくなってのもあった。
だけど、会うたびに憂うつになるのは違うじゃない。やっぱり。

「マウンティングに感じるって、要は自分もそれをコンプレックスだって思ってるからだし、相手はそんなつもりないんじゃない?」とか見当違いな回答を見ることがあるんだけど、え?なに?

そもそも仲いい友達なのに幾度となく“コンプレックスを刺激する”ようなこと言うのがおかしくない?コンプレックスを持ってることはどうしようもなくない?
「自己肯定感が低いせいだ!」って、そんな風に友達を責めるか?敵ならまだしも。

万が一最初は気付かなかったとして、繰り返すのはやはり違うと思うんよ、わたしは。

 

まあ、うだうだ書いたけど、結局のところ
“大変な思いしてまで無理に友達でいる必要はない”ってこと。

相手だって関係だって環境だって変わる。
そのときにダメになってしまったもんはもう仕方ない。

仲良しこよしだけが美徳なわけじゃない、と腹を括れたら、わたしはある種のカタルシスを感じたよ。

三島なんて一度遅刻した人とは絶交してたらしいからね。
気概が違うぜ。