藝術について。
そんなたいそうなテーマで書いて大丈夫か?
もとい、藝術だけがたいそうなわけではなく、ほかの学問と変わらんと思う。
ギリシャ語の「τέχνη téchni(テクニー)」やその訳語としてのラテン語の「ars(アルス)」、英語の「art(アート)」、フランス語の「art(アール)」、ドイツ語の「Kunst(クンスト)[注釈 1]」などは、
もともと単に「人工(のもの)」という意味の医術や土木工学などの広い分野を含む概念で、現在でいうところの「技術」にあたる。
技術とほぼ同義だったのが、なんだかやたら高尚な存在に仕立て上げられてる、ってのが正直なところじゃないか?(技術が高尚でないと言っているのではない)
子供の頃より、親や祖母に連れられ多くの美術館や博物館に行った。
とは言っても、鑑賞後に行く上野界隈のレストランのほうが楽しみだったような気がする。
あまりジャンルにこだわりはなかったようで、来日している絵画からエジプト展のようなもの、仏像や映像作品…多岐に渡って見たと思う。
正直、それがどれほど記憶に残っているかは自信がないが、まあ、そんなもんでいいんだと思う。
小さい頃からベーコンは好きだった。好き、というか、キモいけど気になる、といったところか。
そこからサブカル(って今いうんですか?)やポップアートやらに傾倒しつつ、大学での出会いがわたしの一部を作ったと思う。
その子は花子(仮名)と言って、同じ哲学科のパッと見は優しそうでふんわりした感じの女の子。だけど中身はかなりぶっ飛んでて、「すごい女がいるもんだ…」と思った。
まだギャルギャルしい見た目だったわたしとなぜ仲良くなってくれたのか、今でも不明だが毎日一緒にいるくらい仲良しだった。
その花子がわたしに新しい道を示してくれたように思う。
彼女はアートに造詣が深く、一緒に美術館に行ったり、作品について話したり、多くのことをわたしに教えてくれた。
そこから、それまでとは作品に対する態度や考え方がガラッと変わった。
哲学を専攻してても、結局何について研究するか、なんて最初から決めてるわけではなく(決まってる方が稀だと思う)、
花子や尊敬する教授、佐々木健一との出会いで、哲学的立場から藝術を見る、というところにわたしは落ち着いた。
ベーコンが好きなようにわたしは基本ミーハーなので、卒論の研究対象にしたものマルセル・デュシャン。
スキャンダラスでセンセーショナルな彼を取り上げることにいささか躊躇はあったものの、やはりわたしの中の哲学と藝術を語る上で彼は欠かせなかった。
藝術とは、なんであるか。
視覚の奴隷か、それとも。
見たままその場を動けなくなるような作品も、何度も思い返して反芻するような作品も、ずっと忘れていたのに急に思い出すような作品も、すべてが藝術だよな。
けれどもなんでも不可解なものを“藝術”って言っときゃOKではないし、ほかの学問同様歴史や流派をきちんと学ぶのが筋だと思う。
大学で“きちんと藝術を学ぶ”ということをして、それに気付いた。
ただ美術館へ行って、画集を見て、頭に浮かんだ何か、心に起きた何かを堪能するのもいい。
でも、それだけでは到達できない場所があるのも確か。
それは、どの学問にも言えることだが。
学ぶ、というのは自然発生した現象だけでは見られない景色を見ることかもしれない。
続く…のか?
読み応えあるのでお暇な方はぜひ。