失語

市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬまで

モラトリアムはルサンチマンを消すのだろうか

若干書き足し。

 

日大みたいなマンモス校のいいところを挙げるとすると、この記事で言った“まったくの畑違いの人”との出会いだと思うんだ。

専門性が高い学校でその道を極めるのももちろん一つの素敵な選択。
就職先を見据えて日々研鑽するってのも当然考え得る一つだよね。

でもわたしは、大学での勉強は就職のための準備という考えは絶対に持ちたくなかった。“純粋に勉学だけをしに行く”という、この思い、なぜかここだけは絶対に譲れない、そして揺るぎない思いだった。

 

そんでさ、日大くらい学部も学科もたくさんある大学だと、一つのキャンパスだけでもいろ~んなことやってる人がいて、なにかの拍子でそことクロスするおもしろさがある。

 

前出の体育学科の人との出会いもそう。
仲良くなってから迎える新年度で「なんか一緒の講義取ろうぜ~」みたいな場面があり。

必修科目は基本その学科生しか取れないが、“体育学科の先生が担当してる学部生なら誰でも取れる講義”みたいなのが存在してるのを知り、一緒に取ったり。
それまではデカい教室でやる人気講義みたいのばかり取ってたので(というか、それ以外よくわからんのよね)、新鮮ですごいおもしろかった。

もう、板書してる人なんてわたしくらい。というか体育学科以外の人、たぶんわたしだけだった。
ジャージ着てる人しかいないし。

彼らみたいに“〇回出てれば単位確約”みたいな免罪符を持っていないので普通に出てたよ、毎回。ちゃんと栄養学学んでた。

 

哲学科の友人とだけいたら絶対に出てない授業。それがなんか、アホくさい表現だけど「なんか、自由だ~」って思ってたな。いや、今も思い出すとそう思う。

「何選んでもいいんだ~まじでモラトリアムじゃん」って、心から。

 

ウンウン言いながら必修受けて、空き時間は友だちと学食や庭、空き教室でダベッて、ちょっと楽な一般教養受けて、夕方にはバイト先向かって、みたいな毎日。

なんてことない日々、意外と講義も大変でたぶん忙しかったけど、とてつもなく楽しかった。
今とはまた全く違う楽しさ。戻りようのない日々。

 

人生80年(100年?)、ああしてれば、こうしてればと思い悔やむときもあるかもしれない。
でも、何かを選んだことにより、選ばなかった何かの喪失を嘆くのはアホらしい。

 

それはただ選ばなかった経験であって、経験の喪失ではない。