失語

市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬまで

「わたしがブログを書く理由に」寄せて

「なんでブログを書いてるのか」

 

それは、このブログの初回でも話したように、とにかく書き続けることをしたいと思ったから。

 

人に感銘や気付きを与えたいなんて気持ちは(卑しくもゼロではないけれども)なくて、本当にただ、ただ、書き続けることに挑戦したかったから。

それで何か得たのか、何かのプラスになっているのか。正直よくわからないし、そんなことはどうでもいい。

 

留めておけない思いを書くことも、無理やりひねり出して書くこともある。

書かない期間もある。

それでも、“終わり”にはしないこと。

 

人生と同じように、人は何かに意味を持たせたがりすぎる。意味があることがさも素晴らしいことのように考える。

「それってなんか意味あるの?」よく聞くセリフ。

意味がなければやる必要ないでしょ、が内包されているのは明らか。

 

でも、なぜ意味がある方がいいのか、をきちんと説明できる人が一体どれだけいるんだろう。

 

意味があるというのは、有益であることとニアリーイコールと捉えている人が多いと思う。

そして、この“有益”ってのが非常に曲者だとわたしは思う。

 

自分の生活や人生が有益でないといけないと信じ込んでいる。

仕事をし、家族を持ちながらそつなく生活をこなし、時間を無駄にせず、日々成長し、他人や社会にとって素晴らしい存在であり得たいという幻想。

 

 

有益さが自分独自の物差しであれば何ら問題ないと思う。自分のとっての有益は、確かに意味のあることだと思う。

だけども、他人にとって恐らく有益であろう、ということが自分にとってもそうなのだと思い込むこと、これがまずいのでは、と思う。

 

わたしだって人がうらやむような持ち物や生活に興味がないか、と問われればもちろんそんなことはなく、手に入れられるのであれば入れたい、と思うものはたくさんある。

 

しかし、それだけ、でもない。

 

なにも生み出さないこと。目的を持って行動しないこと。

そこだけでしか見られない何かを美しいと思う。そしてその美しさによって何かを得たいなどとも思わない。美しい、ただそれだけ。

 

みんな幸せになりたいはずだ、と人は信じてやまない。気持ちよくて、楽しい生活。

でも、“不幸になろうとする権利”も持ち合わせている、までわかっていないとお話にならないと思う。

 

〇〇なはず、ということと、△△もありうる、ということは同列に考えられる話だから。

 

 

書き続けることが理由ではあるが、何かのためになんていう気持ちは微塵もない。